安藤廣太郎
 
(あんどう ひろたろう)



安藤廣太郎は 明治4年8月1日 柏原町石田の安藤久次郎の長男として生まれました
安藤家は その昔 製油や荒物、書籍などの販売をする商家でしたが 父の久次郎は
たいへん教育熱心な人で 廣太郎を学校へ通わせると共に 旧藩士の中内慎兵衛の
もとで武士の教育なども学ばせました その傍ら 12歳の頃には 店に出て販売や
帳簿付けの手伝いなどもされたそうです そんな少年期を過ごした廣太郎は
明治19年9月 第三高等中学校予科補充科二年に入学し 寄宿舎生活をしながら
学生生活を送り 傍ら 外国人教師のもとで英語の猛勉強にも励みました そして
卒業後の進路について廣太郎は 当初 工科大学の応用化学に進むことを希望して
いましたが将来郷里でも役立つようにと 農学の道に進むことを決意し 明治24年9月
帝国大学農科大学予科四年級へ転入し 農学の勉強に励み 明治25年7月 これを
修了します ここで廣太郎の父 久次郎は帰郷を勧めますが廣太郎の保証人でもあった
田辺輝実の「日本の農業の発展のために 学問をやめてはならぬ」の一言に再び
奮起して 明治25年9月 帝国大学農科大学農学科に進みました そして 明治28年
7月に卒業した後 農商務省農事試験場に勤め 昭和16年に退職するまでの46年間
日本の農業の発展のために研究をされて来ました 廣太郎による「稲の品種改良研究」
のおかげで 明治の頃の10年間の収穫量平均と 廣太郎の研究後の10年間を比較
すると 作付面積は13%しか増えていないにもかかわらず 収穫量は32%も増加した
そうです そんな功績が認められて 昭和28年11月には 文化功労賞を授与され
昭和31年11月3日には 文化勲章を授与されました そして 昭和33年10月14日
87歳で永眠されました 崇広小学校の前
(大手通り正面)にある胸像は 廣太郎の
功績をたたえ 昭和32年に建立されたものです

近年 安藤廣太郎の名前を「こうたろう」と称する方が多々おれらますが
これは間違いです 廣太郎の直系のお孫さんに当たる 安藤誠さんに確認し
正しくは ここに記述しておりますとおり「ひろたろう」ですので お間違えなく!

 

安藤廣太郎

 

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