川端謹次
 
(かわばた きんじ)


川端謹次は 明治42年5月4日 柏原町古市場の洋服仕立業 川端秀三の
長男として生まれました 幼い頃から絵を描くことが好きで昭和2年 謹次が
18歳の時 当時 旧柏原中学校
(現 柏原高校)の図画科の担任だった
山本求が校内で「西洋画展覧会」を開き そこで初めて藤島武ニの絵に魅せられて
本格的に画家を志すようになりました 始め東京小石川にあった川端画学校で
学び 昭和7年 23歳の時 東京美術学校西洋画科
(現 東京芸術大学)
に入学
この頃から日曜ごとに 藤島武二の自宅を訪問し指導を受けるようになりました
昭和9年 武二に同行して犬吠埼に「日の出」の写生に来た謹次は パレットを
持ったまま微動だに動かなかった武二が太陽が昇り始めた瞬間 すまじい勢いで
絵を描き始めたのを見て圧倒され感動したそうです そして 昭和15年10月
31歳の時に結婚し 戦後は 仙台第二高等女学校、第四神戸高等女学校などで
教鞭を執り 昭和24年からは 県立長田高等学校の美術教諭となり 教職の傍ら
絵画制作に励み 日展入選を始め各地で個展を開催し 昭和43年 定年退職の後は
神戸女子短期大学 関西大学工学部講師などを務めました そして 平成7年の
「阪神淡路大震災」で神戸市須磨区にあった 自宅とアトリエが全壊したため 垂水区
桃山台に転居し 平成10年2月には謹次がデザインした 神戸市長田区
「ピフレホール」の緞帳「新緑」が完成しますが その年の11月23日に
肺炎のため89歳で死去されました



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