常岡文亀
 
(つねおか ぶんき)



常岡文亀は 明治31年11月13日 柏原高等女学校体育教師だった 常岡秀治と
妻 千代の長男として 柏原町上小倉に生まれました 文亀は小学校の頃から
樹木や花を育てることが大好きだったそうで 彼が花鳥画を得意としたのも
若い頃から草木や小動物を愛し こう言う自然に対する観察眼が養われていた
からではないでしょうか 大正5年 地元の 旧制柏原中学校を卒業した文亀は
画家を志して上京し 岡田秋嶺、戸部隆吉に師事 後に小泉勝爾に師事し
美術学校入学のための準備指導を受け 翌年の大正6年に 東京美術学校
(現 東京芸術大学)日本画科に主席で入学します 同校の特待生となった文亀は
その後 日本画の大家 結城素明に師事しました また小泉勝爾らの呼びかけで
矢沢弦月らと「晨光会」を結成し 美術学校在学中の 大正10年 第3回帝展で
「百日紅」が初入選を果たします 大正11年に同校を卒業した文亀は結城門下の
塾頭として 東山魁夷、加藤栄三などの 後進の指導にもあたり 昭和3年には
東京美術学校助教授となり 昭和4年の第10回帝展では「鶏頭花」が特選に
選ばれました 昭和9年には 小倉遊亀や寺島紫明らと共に「九皐会」を結成し
昭和19年に同校の教授となりますが 何故か依願退職し 翌 昭和20年3月
郷里の柏原に疎開します そして 昭和28年に再び上京し 中央画壇において
多くの作品を世に送り出し 昭和54年11月29日 81歳で亡くなりました

 

常岡文亀



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