三宅竹隠 「青緑山水図」


 

        

三宅竹隠は 万延元年 温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「いた屋」に生まれ
名を璐、字を子通、幼名を徳之助といい 別号を三白庵と称しました 子供の頃から
虚弱児だったそうなのですが学問や絵画には秀でた少年で 早くに漢籍や算盤なども
習得し地元の子供たちに教授するようにまでなりました ちなみに 但馬の文人として
知られた結城蓄堂に漢詩を教授したのも この三宅竹隠だそうです この他にも 竹隠は
趣味として篆刻や俳諧なども嗜む文人でした そして いつ頃かはハッキリしないのですが
本格的に絵画の道を志すようになり 京都へ出て 南画の大家 田能村直入に入門し その
才能を発揮して やがて高弟の一人に数えられるまでになり 直入が「私立南宗画学校」
を開校した際には その教員として後進の育成にもあたりました ところが生来病弱だった
こともあり 明治33年 41歳の若さで亡くなっています

この作品は 明治23年 竹隠が31歳の時の作品です

 

        

部分拡大図

 

竹隠は 漁夫や農夫、賢人といった人物描写がとても巧みで独特の個性があり
「竹林七賢図」といった襖絵をはじめとして優れた作品を残しています この他にも
遺墨としては 城崎町温泉寺の襖絵や養父町満福寺の襖絵などがあり
ます


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