斎藤畸庵 「秋景山水図」


 

            

斎藤畸庵は 文化2年 温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「伊勢屋」に生まれ
名を淳、字を仲醇、幼名を小太郎
(後に文之助)といい 別号を息軒老人と称しました
文政3年 16歳の時に画家を志して京都に上り 南画界の重鎮 中林竹洞の門下に入り
画法を学びます 嘉永6年 49歳の時に竹洞の下を離れ 播州〜阿波〜讃岐〜長崎と
諸国遊歴の旅に出て 晩年は東京の神田駿河台に住まいしました 
そして 明治16年
4月1日、2日の両日 長野県富士見町の「三光寺」での書画会に出席の後 甲府に赴き
4月15日 甲府の旅館「佐渡幸」にて79歳で亡くなりました

畸庵の描く山水画は ち密な細かい筆致で描かれているのが特徴で 一部の愛好家に
大変人気があり 素晴らしい作品が多いのですが 畸庵自身は名誉や利益には一切
興味がなく 世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しんだので
確かな技量があるにも関わらず 南画家としては地味な存在でした しかし 近年
その作品は高く評価され 隠れた大家の一人として挙げられています

この作品は明治15年  畸庵78歳の時に描いた本紙(紙本)178.5cm×85cmの大作です

 

                   

落款

 

部分拡大図

 

襖絵として残された畸庵の主な作品は下記のとおりです

嘉永4年(47歳)

城崎町温泉寺

「那智群山図」 「涓川煙雨図」

万延2年(57歳

養父町満福寺

「山水図」

万延2年(57歳

浜坂町満願寺

「梅花孔雀図」 「牡丹孔雀図」

慶応2年(62歳

久美浜町金剛寺

「竹庭の図」(現在は屏風に仕立て直されている)

畸庵は詩文にも優れ「梅花十八律」「淇影湘香室吟稿」「簿游漫載」といった多くの
書物も残してい
ます



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